鹿児島県立海軍酎央指揮所?
鹿児島県立海軍酎央指揮所?
明治10年、「拙者儀政府に尋問のかどこれあり」と西郷さんは上京した。尋問というが戦にでたのである。司馬遼太郎は「西郷の本心ではない」とし江藤淳は「これぞ西郷の本心」とする。芥川龍之介は「列車の中でその人をみた」と小説にする。石牟礼道子「西郷伝説」では、水俣市深川村の年寄りたちは、西郷さんは城山で死なず、逃げ延びて中国に渡り、後の日清・日露の戦の参謀として功をなしたと信じている、と記す。
写真は、わが県立海軍が誇る敷島型戦艦・桜島。桜島の噴煙を後に錦江湾を出撃せんとする図である。下は出撃する「桜島」と入れ違いに、錦江湾に入る戦艦・霧島の雄姿。中央政府に一撃をかませて凱旋帰国した図である。「機密画像ニ付キ部外厳秘」とまで凝る。凝ると書いたのは、もちろんパロディだからだ。敷島型戦艦に桜島があるわけがない。
しかし、サツマにはそういうパロディを本物に感じさせるものがある。石を投げれば、侍に当たると「薩摩見聞録」は書いたが、このイモ侍は廃刀令が出ても驚きはしない。気位は高いが野良仕事はお手の物の侍だったからだ。記録によれば幕末、サツマの武士は25万7400余人、そのうち城下には8千人ほど。ほとんどが今でいう半農半漁のイモ侍だったから、他藩に比べて侍が多くても、すぐに農業ができる。問題は城下の侍の始末だったに違いない。
西南戦争は、そういう輩が火だねになったのかも知れない。中央政府に納税もしないで政府のサツマ幹部大久保利通らを困らせる。しかも藩の公的資料をほとんど破棄し、さながら独立国の様を呈した。だから県立海軍”酎”央指揮所なるものがあったのは、ひょっとしたらほんのこて、ホントのことだったりして。
戦で上京する一団はまるで東京見物にゆくように「東京の土産を買うちくるけん、待ちょれ」と笑顔で出ていった、とある。中央政府の懸念をよそに豪放磊落というのか、間の抜けた明るさというのか、どこか他の国の人と違うと感じるのは私だけだろうか。写真は「県立海軍酎央指揮所」から。焼酎のみながら描いたのでしょうか?
明治10年、「拙者儀政府に尋問のかどこれあり」と西郷さんは上京した。尋問というが戦にでたのである。司馬遼太郎は「西郷の本心ではない」とし江藤淳は「これぞ西郷の本心」とする。芥川龍之介は「列車の中でその人をみた」と小説にする。石牟礼道子「西郷伝説」では、水俣市深川村の年寄りたちは、西郷さんは城山で死なず、逃げ延びて中国に渡り、後の日清・日露の戦の参謀として功をなしたと信じている、と記す。
写真は、わが県立海軍が誇る敷島型戦艦・桜島。桜島の噴煙を後に錦江湾を出撃せんとする図である。下は出撃する「桜島」と入れ違いに、錦江湾に入る戦艦・霧島の雄姿。中央政府に一撃をかませて凱旋帰国した図である。「機密画像ニ付キ部外厳秘」とまで凝る。凝ると書いたのは、もちろんパロディだからだ。敷島型戦艦に桜島があるわけがない。
しかし、サツマにはそういうパロディを本物に感じさせるものがある。石を投げれば、侍に当たると「薩摩見聞録」は書いたが、このイモ侍は廃刀令が出ても驚きはしない。気位は高いが野良仕事はお手の物の侍だったからだ。記録によれば幕末、サツマの武士は25万7400余人、そのうち城下には8千人ほど。ほとんどが今でいう半農半漁のイモ侍だったから、他藩に比べて侍が多くても、すぐに農業ができる。問題は城下の侍の始末だったに違いない。
西南戦争は、そういう輩が火だねになったのかも知れない。中央政府に納税もしないで政府のサツマ幹部大久保利通らを困らせる。しかも藩の公的資料をほとんど破棄し、さながら独立国の様を呈した。だから県立海軍”酎”央指揮所なるものがあったのは、ひょっとしたらほんのこて、ホントのことだったりして。
戦で上京する一団はまるで東京見物にゆくように「東京の土産を買うちくるけん、待ちょれ」と笑顔で出ていった、とある。中央政府の懸念をよそに豪放磊落というのか、間の抜けた明るさというのか、どこか他の国の人と違うと感じるのは私だけだろうか。写真は「県立海軍酎央指揮所」から。焼酎のみながら描いたのでしょうか?
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